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思想に関するnisemono_sanのブックマーク (13)

  • archives of bewaad institute@kasumigaseki(2006-03-09)

    ■ [economy]クルーグマンによるケインズ「一般理論」紹介 #あの山形浩生さんによる完訳ができましたので、以後ご関心の方はそちらをご覧ください。もはやこのエントリには物事の時系列を示すぐらいしか価値がありませんから(笑)。(3/27追記) Delongによる引用を訳しました(大部となるので原文は併記していません。ソースをご覧下さい)。誤訳のご指摘大歓迎です。 #最初は単なる紹介で手を抜くつもりだったのですが、hicksianさんに先を越されたので奮起してみました(笑)。 2005年の春に開催された「保守系学者・政治指導者」評議会には、19世紀・20世紀におけるもっとも危険なについての諮問がなされた。チャールズ・ダーウィンやベティ・フリーダンがリストの高位にランクされた。しかし、「雇用、利子及び貨幣の一般理論」もまたそうであった。実際には、ジョン・メイナード・ケインズはレーニンやフラ

    nisemono_san
    nisemono_san 2006/03/09
    ほほう
  • 自己差別と自己変化 - heuristic ways

    『知識人と社会』の著者・三宅芳夫氏のプロフィールを見て、氏が『批評空間』第Ⅱ期19号(1998年)に、「留保なき否定性――二つの京都学派批判」という論文を寄せていることに初めて気づいた。マイケル・ハートの「監獄の時間」も載っている号だが、どうやら私は三宅氏の論文を読んでいなかった。ざっと目を通すと、これは、竹内好と武田泰淳(二人は戦時期、ともに「中国文学研究会」のメンバーであった)が京都学派(高山岩男や高坂正顕)の「世界史の哲学」(「大東亜戦争」を正当化するイデオロギーであったとされる)に対してどういうスタンスを取り、いかに批判的な視座を獲得していったかを論じたもので、私が面白いと思ったのは、フランス第三共和制の下で「人間主義」「権利」「市民」といった普遍的概念に(人種差別的な帝国主義=植民地主義の)抑圧と隠蔽を見出したサルトルを論じている著者が、日の文脈では、竹内好と武田泰淳という二人

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  • デリダの部屋

    参考文献 1. デリダ個人の単行, およびそれに準ずるもの 2. デリダのテクストを含む論文集など 3. デリダや脱構築が多少の差はあれ議論の対象となっている 関連サイト

  • kashimura..html

    汎資主義と<イマジナリー/近しさ>の不在 マルクスのレクチュールではなく、マルクス主義をまもるために 研究手帖 人肉レストランでの体験 特集=キルケゴール 性的不能 存在の犬 物象化論と弁証法*唯物論 クリティーク3号 1986年4月 総特集=荒川修作+マドリン・ギンズ 「アトリエの毛沢東」 その精神病的=分析哲学的表象システムと上下反 転運動の論理的解明 『革命の諸要素』 『四つの運動からなるわが方法』★一 嘘の力と力の嘘 ――大島弓子と、そのいくつかの政治学 昭和五十五年優秀論文 京都大学文学部哲学科卒業 アルチュセール派イデオロギー論の研究 ――後期アルチュセールの理論的活動への探索 ―― 彼岸の強者と此岸の死者 法と自然 0° 挑発座談会 "ポストモダン"を超えて <物(ブツ)>が全て、この陽気な目茶苦茶 「アインシュタインはなぜサイコロが嫌いだったか?」 特集=ジル・ドゥルーズ

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  • シモーヌ・ヴェイユのために

    フランスの活動家=思想家、ヴェイユ論。釜ヶ崎に来る前後、ヴェイユを熱心に読んでいた。そして35才になったとき、とうとうシモーヌ・ヴェイユの死んだ歳を越えたんだなあと思って、それまで読んでなかったものも含めて集中的に読み返した。その時の印象がこの文章の出発点になっている。それと同時に、「c.s.l.g」の結果を社会的問題に適用したらどうなるかという試みでもあった。 ついでながら、もしシモーヌ・ヴェイユが現代日に生きていたら、かなりの確率で釜ヶ崎に来ていただろうが、その場合われわれはきっと「あの人、すごい人なんだけど、ちょっとずれてるよねー」(あるいは「ずれてはいるけどすごい」)と評したことだろう。そこら辺が「追跡不可能で追跡不必要」なのだと思う。 この文章の結末は、ただちに「文書・2001年2月7日」に接続している。 シモーヌ・ヴェイユ(1909~1943)はベルナノスへの手紙(1938年

  • 蓄音機の効果 (1/2) ─ ジャック・デリダ 「ユリシーズ・グラモフォン」 中井 悠

    およそあらゆるマーク(≒記号)たるもの、それが意味をもち、理解され、使用されうるかぎりは、たとえどんな私的なものであろうと、その担い手たる主体の不在においても反復可能でなければならない。というジャック・デリダが1968年の「署名・出来事・コンテクスト」以来口酸っぱく主張してきた反復可能性の議論は、だがいつもながらこの哲学者の語り口の曖昧さからしていらぬ誤解を招きやすい。たとえば(芸術作品、なかんずく音楽作品に関して反復可能性の書法は当てはまらないのではないか、と問われて)「芸術作品といえども存在するためには何らかの同一性が作品の同定を可能にするために必ず構成されなければならず、それは他の刻印と同じく、ただおのれの反復可能性を通してのみ成立するものである」云々 [*1]。ちょうど口頭発表後の討論の場で、焦ったせいかこの答えはもっぱら芸術の経験という特個的な出来事の記憶可能性だけを語っていて、

  • 政治思想学会会報第16号 - 「身ぶり」としての思考

    「身ぶり」としての思考 ―― 矢野久美子著『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』(みすず書房、2002年)によせて 村井 洋(島根県立大学) 近年、アーレント研究の興隆は日語文献においても著しいものがある。アーレントに主題を絞った書籍に限っても伊藤洋典『ハンナ・アレントと国民国家の世紀』(木鐸社刊2001年)、杉浦敏子『ハンナ・アーレント入門』(藤原書店刊2002年)をはじめとして注目すべき業績の枚挙にいとまがない。ここで取り上げる矢野氏の取り組みは、アーレントのバイオグラフィーとビブリオグラフィーとの結びつきを主題にした点で特色があると思われる。伝記的事実を重視したアーレント研究には、すでに寺島俊穂『生と思想の政治学』(芦書房刊1990年)という先駆的業績があるし、近年では太田哲男『ハンナ=アーレント』(清水書院刊2001年)も刊行されている。そんな中にあって矢野氏は、「

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    nisemono_san 2006/02/16
    矢野久美子著『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』(みすず書房、2002年)の書評
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    哲学いろいろ

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    このドメインは お名前.com から取得されました。 お名前.com は GMOインターネット(株) が運営する国内シェアNo.1のドメイン登録サービスです。 ※1 「国内シェア」は、ICANN(インターネットのドメイン名などの資源を管理する非営利団体)の公表数値をもとに集計。gTLDが集計の対象。 ※1 日のドメイン登録業者(レジストラ)(「ICANNがレジストラとして認定した企業」一覧(InterNIC提供)内に「Japan」の記載があるもの)を対象。 ※1 レジストラ「GMO Internet, Inc. d/b/a Onamae.com」のシェア値を集計。 ※1 2020年8月時点の調査。

    nisemono_san
    nisemono_san 2006/02/08
    ガタリ・ジジェクの連結が必要なのかも?生殖、性愛に関することを如何にして「ミクロ政治学」として語りうるか。
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    絵の超初心者ド下手くそ人間が、20日間絵を描いて感じたこと わたしは、「文の人」だ。絵を描くのは大の苦手。 そんなわたしが、ひょんなことから絵を描き始めた。 そうしたらおもしろくなって約20日間、なにがしかを描きつづけている。 未知の領域での挑戦は、発見が多い。 また、ここまで絵を描けない人間の挑戦は、あまりネッ…

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    nisemono_san
    nisemono_san 2006/01/11
    絶対主義を相対化するためには相対化という視点では駄目。むしろ絶対主義が必要なのではないかという問題。
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