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(007)に関するnisemono_sanのブックマーク (4)

  • 天皇裕仁の退位の問題 | 中山研一の刑法学ブログ

    マッカーサーと天皇の関係を示す今ひとつの重要な問題として、敗戦後の天皇裕仁の退位をめぐる問題がある。ダワーは、この問題についても、辛辣な筆致で当時の状況を描いている。 「もし占領当局が裕仁の退位を促す方針をとっていたなら、それを妨げるような障害は何も存在しなかったことは明らかである。そのことは天皇側近にもわかっていた。それがどんなに悲しいことでも、人々は敗戦を受け入れた時と同じように、あっさりと天皇退位の発表を受け入れたであろう。(下巻67頁)。 「A級戦犯への裁判が正式に始まる46年3月18日から4月8日まで、天皇は自らの統治下における主要な政策決定について、側近たちに合計8時間もの「独白」を行った。この回想は、天皇の戦争責任をけっして認めていなかった」(下巻71頁)。 「1948年、東京裁判の判決がまもなく言い渡される頃、天皇の道義的責任の問題にふたたび火がついた。・・・しかし天皇は、

    天皇裕仁の退位の問題 | 中山研一の刑法学ブログ
  • マッカーサーと天皇の関係(3) | 中山研一の刑法学ブログ

    ダワーの『敗北を抱きしめて』上・下巻を読了した。「付箋」を頼りに、マッカーサーと天皇の関係についての記述を、さらに追い続けることにする。今回は、両首脳の会見記についてである。 「1945年9月27日、マッカーサー元帥と天皇裕仁が初めて会見したときの有名な写真は、日の新聞に掲載されるや大きな反響を呼んだ。これによって、マッカーサーの権威と、彼が天皇の力になるつもりである(=かたわらに立つ)ことが明らかになった」(下巻23頁)。 「元帥と天皇は、約40分を一緒に過ごした。もとより、2人の会話の詳細は秘密とされた。これ以後、2人は10回にわたって会見することになるが、会話の内容はすべて秘密であった。マッカーサー側が何の記録も残さなかったのは確かである。日側の通訳が残した会見録も、3回分を例外として、まったく公開されることはなかった。結局、こうしたやり方は、玉座をとりまく「菊のカーテン」を最高

    マッカーサーと天皇の関係(3) | 中山研一の刑法学ブログ
  • マッカーサーと天皇の関係(2) | 中山研一の刑法学ブログ

    では、マッカーサーはなぜ天皇の戦争責任を追及しようとしなかったのだろうかか。ダワー『敗北を抱きしめて』の下巻には、その理由と経緯が詳細に展開されている。それは、マッカーサー総司令部の「くさびを打ち込む」という対日占領政策に由来するものだったというのである。 「すでに戦争の後半には、マッカーサー司令部も、天皇が日の降伏だけでなく戦後の変革の鍵を握っていると考えられていた。部下たちの表現によれば「軍国主義者のギャングたち」は日をだましただけでなく、聖なる君主も裏切ったのだと日人を説得し、それによって軍部と天皇(およびその臣民)との間に「くさびを打ち込む」ことが重要なのであった」(下巻8-9頁)。 「天皇の敗戦の放送は、事実上、宮廷と政府が派手に振り付けした「国体護持」戦略の始動を告げる合図であった。放送から7時間後、鈴木貫太郎首相はラジオ演説で、「陛下は万民を救いかつ世界人類の幸福と平和

    マッカーサーと天皇の関係(2) | 中山研一の刑法学ブログ
  • マッカーサーと天皇の関係(1) | 中山研一の刑法学ブログ

    私は、長い間、天皇の戦争責任が結局は問われないままになったのはなぜかという疑問を持ち続けていた。人が自ら戦争責任を認めるのが当然であるにもかかわらず、それが一切なされてこなかったことははっきりしている。しかし、敗戦当時、連合国からは天皇の戦争責任を問う声が上がっていたことは事実である。にもかかわらず結局不問に付されたのはなぜであろうか。ダワーの「敗北を抱きしめて」は、この点を以下のように明瞭に分析している。 「基的にいえば、最高司令官はワシントンの上司に許可をもらえば、既存の政治機構を変更し、天皇裕仁を退位させ、天皇制を廃止することさえできる権限を持っていた。しかし現実には、こうした選択肢は一度たりとも真剣に考慮されることはなかった。日の軍事組織は消滅し、抑圧的であった内務省も解体されたが、官僚制は質的に手づかずのままであり、天皇も退位しなかった」(上巻、262頁)。 「マッカーサ

    マッカーサーと天皇の関係(1) | 中山研一の刑法学ブログ
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