麓の鳥居と標柱の間にある石碑に八幡山神社の略歴が記されている。 平成4年の建立で、祭神が応神天皇・神功皇后・玉依姫命であることのほか、以下の出来事が載っている。 天平宝字年間 勧請 中世 戦乱によって矢野へ遷る 永禄3年 尾崎神社(矢野)から渡子*1へ遷る その後 当地に遷る 天正4年 小早川隆景が再建 文化文政期 『藝藩通志』の記述「祠官の属十余家あり…」 以後 二・三回の改修 音戸町の前身は、東部の音戸瀬戸〜藤脇「瀬戸島村」と、北西部の早瀬瀬戸に面する「渡子島村」で、瀬戸島は中世には波多見島・波多見浦と呼ばれた。 島をめぐって矢野を拠点とする野間氏と竹原小早川氏が争ったこともあって、小早川氏の所領に落ち着くまでが明瞭でない。 『藝藩通志』(巻三十九 安藝國安藝郡四 祠廟)には 八幡宮 瀬戸島波多見村にあり、建久二年辛亥、勸請すと云、天正四年丙子、小早川隆景、再造、(略) と、細かなとこ
広島誓願寺の開祖である安楽庵策伝上人は、戦国時代の天文23年(1554)に美濃の国の金森定近(土岐可頼)公の子として誕生された。兄の金森長近公は初代の飛騨高山の城主である。 永禄3年(1560)7歳の頃、美濃浄音寺の策堂文叔上人について得度出家された。 幼い身で出家されたのは、上人のお母さんは金森定近公の正室の子でなく、側室の子だからとも言われている。 11歳の時に、京都東山の禅林寺(永観堂)で甫叔上人に師事して修行を積まれた。 学成って25歳 (天正6年)に山陽地方へ布教の旅に出られ、備前、備中、備後、安芸の各地で盛んな教化活動をされた。当時の旅の僧は布教活動だけでなく、各地を渡り歩いた情報を、それぞれの領主に提供しては子厚い供応に預かったようだ。それも並みの僧ではそれほどの供応も無いだろうが、策伝上人や安国寺恵瓊といった傑僧は大切に処遇されたに違いない。 こうして策伝上人は西方寺(広島
読んだ本や安芸の歴史など気の向くままに書き綴るサイト。 今のところ中世、毛利元就とその周辺の国人達が主。 昨日のゆつきの生涯の続きですが、 ここでは主にゆつき長男の河野家最後の当主を務めた 河野通直を中心に「ゆつき」について考えたいと思います。 天正2(1574)年、牛福は元服した後、河野通直と名乗ります。 ・・・2代前に同じ名前がいるからややこしいので 2代前を河野通直(本家)とし、 元就のひ孫のほうは通直とします。 さて、天正9(1581)年、 通直は吉見広頼の娘と結婚します。 吉見広頼の娘は、輝元の姉の子で”矢野”と呼ばれていました。 この”矢野”のことを輝元は相当大事にしていたらしく 忍び衆であった神保就俊を側役につけて伊予へ送り出し 様子を案じていた手紙が多くやり取りされているようです。 次の天正10(1582)年 異母兄、来島通総が離反し、織田方につきます。 河野家の正統な流れ
竺雲恵心について,『広島県大百科事典』「安国寺恵瓊」の項によると「(恵瓊は)1553年東福寺の竺雲恵心の弟子となる。」とあり。参考資料(1)~(6)にそれぞれまとまった記述があります。 参考資料(1)p.232~234に「毛利元就隆元と竺雲恵心」「竺雲毛利氏より正親町天皇即位御料献金を斡旋す」「隆元の竺雲帰依」を小見出しとする記述あり。 参考資料(2)「第3章郡山時代の名僧」の項,p.477~478に「竺雲恵心」あり。関連記述として,p.489~190「常栄寺」 参考資料(3)p.82~83 「竺雲恵心」「常栄寺」を小見出しとする記述あり。 参考資料(4)p.123~150に常栄寺に関する文書あり。竺雲恵心の名前が散見される。 参考資料(5)編年体で編集されており,正親町天皇の代(元禄元年~天正7年頃(p.760~773あたり))に竺雲恵心の名が散見される。 参考資料(6)恵瓊が竺雲恵心の
JR宮島口駅の西側の第一踏み切り脇線路沿いに宮内庁管轄の任助親王の御陵がある。任助親王は伏見宮貞敦親王の子で、後に後奈良天皇の養子になり仁和寺に入り出家し宮島に滞在中に入滅された。 この地に宮内庁の管轄する御陵があることはあまり知られていないのでは・・・ ポチッとね!
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