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広島とg文政に関するkanototoriのブックマーク (52)

  • 下調帳の貞丸1号古墳 - 環藝録

    文政二年提出、南方村の「国郡志御用ニ付下調書出帳」にはこう記されている、という孫引き。 油塚 塚の内に石船と云伝へて長さ七尺、横三尺九寸、高さ二尺、石中、人の臥みたけほどうがちたる石あり、又、近所に右石の蓋とおぼしき石もあり、上代富貴の人の墳墓か*1 この記述を参考にして、前項『藝藩通志』の「古壙」になるのだけれども、そこでの石函(地元の呼称:石船)の寸法は「大約長六尺幅三尺高三尺餘」とあって、三点とも少し違う。測る部位が違うのか測る人が違うのか、はたまた切りの良さが違うのか。 また、近所の「右石の蓋とおぼしき石」は、後に供養塔の台石になるものが転がっていたのか、又は他のそれっぽい平たい石があったものか。すでに「石船」と言い伝えられるほどに、その石棺が蓋を失ってから長い年月が経っていたもののようであり。 *1:「貞丸1号古墳・貞丸2号古墳」『日歴史地名大系35』平凡社

    下調帳の貞丸1号古墳 - 環藝録
  • 三原刀匠正家/備後鍛冶六代正家に関する文献資料 | ONLINE » 公式 | 刀剣 三原正家×みはらまさいえ

    刀鍛冶は、〝たたら〟と呼ばれる粘土で作った炉の中で、送風装置の〝ふいご〟を使って木炭を燃やしている間に赤目砂鉄を入れて鉄(玉鋼)を作り、その玉鋼(たまはがね)と水を使って刀を作りました。

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    kanototori 2022/10/29
    御調郡東野村
  • 館町と桜山 - 環藝録

    和久原川西部、三原駅の北側一帯が「館町」。もと三原城内で、神明大橋西詰に「東大手門跡」の碑がある。 碑のある曲がり角には「桜山登山道」への案内表示もある。桜山は館町のすぐ北にある小山で、全長865mの登山道。平成10年に桜の植樹が始まった、と案内図にある。 桜山はもと御調郡西野村の南東端にあたり、中世の城跡として記録された。 桜山城跡 城主山名権之左衛門与申伝候、由来年暦相知不申候、城山之後ロニ大目木与申所御座候、此所より落城仕候ニ付、大めげ与申名ヲ言誤テ大目木与申習セ候由申伝候、駒ヶ原与申候者(略) 西野村「国郡志御用ニ付下しらへ書出帳」*1 櫻山城  西野村の地にて、三原城の北にあり、相傳る、文應、文永の間、山名權左衛門入道氏正なるもの居りしが、弟備中に殺さる、後氏正が子、備中を討て再び此城に據りしといふ、 『藝藩通志』巻百 村の提出した記録では古城跡にまつわる地名について詳しく、藝藩

    館町と桜山 - 環藝録
  • ホタルの里 - 環藝録

    「坂村」は同じく高田郡でも水系の異なる三篠川流域の上流で、豊田郡と三次郡(文政期当時)と隣接する。 そこの「書出帳」はどの部門も記述が詳細で、物産も名前だけでなく注記がたくさんある。 「魚龞之部」には「山椒魚」に「所俗はんざきと申候」と添えられ、 「虫之部」では筆頭に「螢」があり、「当村ハ沢山ニ居リ申候四月末より五月初メ頃盛ニ御座候」と、名物のように意識されている。

    ホタルの里 - 環藝録
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    kanototori 2022/04/21
    高田郡坂村
  • 三原市教委、仏像・絵図3件を市有形文化財に 一般公開を検討 | 中国新聞デジタル

    三原市教委は、仏像「木造観音菩薩(ぼさつ)立像」と2体一組の「木造二天王立像」、三原城の絵図「文政12年三原城石垣櫓(やぐら)修補願図控」の計3件を市有形文化財に指定した。

    三原市教委、仏像・絵図3件を市有形文化財に 一般公開を検討 | 中国新聞デジタル
    kanototori
    kanototori 2021/08/28
    「文政12年三原城石垣櫓修補願図控」
  • 広の三角州 - 環藝録

    賀茂郡広村の『国郡志御用書上帳』*1(文政二年)では、村内の川を「大川壱筋」のみとして、その大川が村内で枝分かれして海に注いでいるとする。 郷中ニ而二筋ニ分レ、又三筋ニ分レ末海中ニ入、西を川と言東を中川と言、 その「川」(広西大川)と「中川」(広東大川)に挟まれた三角州が「古新開」と呼ばれ、古新開からさらに沖へと干拓が進み、「四新開」「仙兵衛新開」「彌生新開」「武兵衛新開」が連なっていた(『藝藩通志』巻七十六、広村絵図の記載)。 ぱっと見気付きにくい「新開」と「新聞」の誤りは、「古新開」で起こりやすいのかもしれない。 また、同書上帳の「当村形勢生産之事」に、水害の多いことに触れている。 右大河なれハ年々砂流れ出川筋高くなりて古地方ハ水損多し、又大水ニ至れハ所々川岸堤等危く、村中之者向寄々ニ相集り是を防く事心力を尽せり、誠ニ後来水難之憂あり、 大正時代、広村に海軍工廠が置かれたことで都市

    広の三角州 - 環藝録
  • 美波羅川 - 環藝録

    広く江田庄と括られた三谿郡西部地域。そこで一番大きな川が「美波羅川」で、みよし風土記の丘の東を流れて馬洗川に合流している。源流は世羅郡の青水。 前項と同じくふるさとの川と桃源郷 (芸備選書)。 p47からp53は「美波羅川-正しくは三原川。美波羅川は風流人のつけた名称-」という記事で、明治二十年代に「美波羅川」という統一呼称を与えられたことなどが記されている。語源の「三原」から表記を変えて用いたものという。 三谿郡での呼び名に「西川」があるものの、流域の村単位では東西南北を冠する必要性は少なかったろう。強いて言えば「大川」ではあるけれど、 一 大川 壱筋 川上当郡三若村より流来、川下海渡村へ流込申候 (略)川名何与申儀茂無御座候 「三谿郡石原村国郡志御用書上帳」(『三次市史4』三次市.2004所収) 固有名詞が無くとも日常では差し支えなかったと見える。

    美波羅川 - 環藝録
  • 大毛寺の人穴 - 環藝録

    上ヶ原神代人穴 数拾ヶ所  往古人住居仕候由 奥行五間 横九尺或ハ二間三間有之候片平ニ入口有之中ニ炭ノ粉杯有之何ツノ頃何人住候歟ハ相知不申左右奥ハ築地ニ而上ハ石畳ニ仕雨露漏不申候当時ハ野山又ハ百姓腰林ノ内杯ニ御座候 大毛寺村「国郡志御用ニ付下調べ書出帳」 と、大毛寺村の古跡として記録されているけれど、上中野村や水落村では取り上げられていない。複数の村にまたがる福王寺山南斜面を「上ヶ原」ということにするなら、現存の青古墳群も含めた古墳が「数拾ヶ所」あったということか、それとも数量については大毛寺村にあるものだけかもしれない*1。 「奥行五間 横九尺或ハ二間三間」という寸法が、どの古墳のどの部分をどう測ったのやら。青4号古墳の「全長5.95m、幅 入口付近1.1m、中央1.45m、奥壁部1.24m」*2とくらべても、そのままでは置き換えられない長さ。墳丘の直径はどれも10m前後だから「幅」とは

    大毛寺の人穴 - 環藝録
  • 藝藩通志の厳島部分 - 環藝録

    芸藩通志の凡例に、 一、厳島は藩内にても、霊異非類の地なれば、島志の製、おのづから外邑と同じからず。故に古文書、古器物、藝文なども、皆志に附て観るものヽ便にしたがふ、他地の例にあらず といい、全159巻のうち、第十三巻から第三十二巻の19巻分を厳島に割いている。他の土地では別に置かれる「古文書、古器物、藝文」も巻十八以下に連続して載せている。 巻十三から十七までは以下のような構成となっている。 巻数 部門名 内容 13 圖考 絵図三種類 總説 島の概況 神廟起源 鎮座の所伝 神階 律令期の位階 神封 厳島神社領の履歴 造営 社殿造営の履歴 宮殿廊廡 厳島神社に付属する建造物 大鳥居 大鳥居建造の履歴 14 屬祠攝社 島内外の摂末社 祭祀祈祷 神社の年中行事 巡島禊祓 七浦の巡拝 15 佛觀 仏像等の安置される建造物 僧院 僧侶の居住する建造物 祠官職員 神社に関わる役職 市街公廨 大きく

    藝藩通志の厳島部分 - 環藝録
  • 柳瀬 - 環藝録

    キャンプ場の入口、安佐北大橋を見上げる位置に柳瀬バス停がある。 緑井からの路線バスが弘億団地・筒瀬を経由してここで終点となる。 「やなせ」の由来について、『国郡志御用につき下調べ書出帳』はふたつを挙げる。 柳瀬村ハ川筋ニ而其処ノ模様或ハ大木抔*1在之類ヲ以名ト仕候歟 往古柳ノ木有之瀬ヲ柳瀬ト唱来リ候物ト相見エ 文政の当時の状態として「柳のある瀬」といえる風景ではなかったということだろうか。川からの目標物となるような植物に由来するのだろうという想定。続けて 一説ニハ御簗所掛候処ヲ柳瀬ト申候歟 と、鮎をとるための藩営の簗が設置されたことによるという説を挙げるが、 是又簗瀬エ簗掛候義詳ニ無之 と、すぐ川下の河戸の御簗所(下り簗)の存在は知られていても、柳瀬村に御簗所は不詳ということでその説はしりぞけられ、 柳瀬ノ方相当可仕ト奉存候 と、穏当な方として柳の木の由来を採用する。 藩の統制の加わる以前

    柳瀬 - 環藝録
  • 古墳のお供え - 環藝録

    古墳の石室が露出しているところに賽銭が撒いてある例というのはあまり目にしたことがないけれど、西谷1号古墳(海田町)の花や、御年代古墳*1の石棺上の小皿など、墓所への接し方の現れとしてお供え物が見られることはままある。 中国新聞アルファ 古墳と知った上で現代人がそう接するとすると、「籠り塚」*2や「火の釜」*3と呼ばれていたような頃、墓ではなく別の「古跡」と思われていたときの接し方は、意味付けによって異なる。 可部トンネルのすぐ北、九品寺古墳群の1号古墳は「穴観音」が祀られている。拝む対象が他から持ち込まれることで礼拝の対象になったと見るか、はたまた観音導入以前から拝まれる場所だったと見るか。 トウカイ 一、穴観音 一宇 岩穴ノ内 百姓 平吉抱 九品寺村「国郡志御用に付下調べ書出帳」 *1:http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20101017/128732663

    古墳のお供え - 環藝録
  • 賀茂郡の火ノ釜(ニ) - 環藝録

    賀茂郡寺家村の書出帖の記述は以下のとおり。 火之釜 凡入二間幅壱間深サ六尺斗廻り石垣にして上に大石のひらなるを置く上古木巣穴居の遺跡なるか或ハ落人の隠家ともいひ或ハ人皇廿六代武烈天皇の御宇苛虐の政行ハれける故かやうにては後ハ火も降るべしと人〃いひけるを其時は民淳質にしてさもありなんと火を防がんために所〃に構ふともいひつとふ火の釜の跡當村ニも六ヶ所程御座候○又昔火の降るとて鹿島大明神の命ニて日國へ觸サセ給ふゟ今も鹿嶌ゟこと觸の出ルよし申ものも御座候 「火之釜」の由来に三つの説が挙がっている。「上古木巣穴居の遺跡」「落人の隠家」「火を防がんために所〃に構ふ」。そのうちの三番目の説について詳細であり、末尾にはそれを補強するかのように「昔火の降るとて鹿島大明神の命ニて日國へ觸サセ給ふ」という「鹿島の事触」が持ちだされている。 「火の釜」という呼び名自体が特殊な由来を連想させやすいのか、「こもり

    賀茂郡の火ノ釜(ニ) - 環藝録
  • 「三次町国郡志」〈稲生物怪録〉の位置 | CiNii Research

    kanototori
    kanototori 2019/11/22
    「三次町国郡志」(吉岡家本)写真版
  • 芸州廿日市本陣の3次元外観復元想定図 | CiNii Research

  • 鳥の類の記述 - 環藝録

    さらに川下の甲田町甲立。 国道から智徳橋を渡ると甲立駅に通じる。 橋からどちらを眺めても鷺が点々とたたずんでいる。 村ごとの『国郡志御用ニ付下調書出帳』の「物産」「鳥の類」を並べると、同じ江の川沿いなのでだいたい似通っているが、山の多い村なら山の鳥がやや豊富に見える。 村名 鳥の類 上甲立 雀 烏 鷺 雉子 鶯 雲雀 鳩 中馬 雉子 鳩 山鳥 鴉 鳶 雁 燕 雀 ひよ鳥 川 雲雀 ほうしろ 山から 鳩 雉子 雀 鳶 烏 ふくろう こもり 鴫 鴨 さき つくみ 長屋 鶏 雉子 やまどり はと からす とび すずめ ひばり つばめ ひよどり (虫)やまがら うぐいす 目しろ もず かわせみ 早から しぎ 三こう

    鳥の類の記述 - 環藝録
  • 広島県の文化財 - 知新集 - 広島県教育委員会

    【解説】 「知新集」は,江戸時代における広島町奉行管内(町組と新開組,すなわち旧広島市域)の地誌としてほとんど唯一で,しかもきわめて詳細な文献で,広島藩地誌「芸藩通志」の編集の下調査書の一つである。西町奉行菅求馬,町役人の山県屋,安田屋らが史料を集め,更に藩士で文人の飯田利矩(篤老)(とくろう)が主任として加わって文政2年(1819)から文政5年(1822)までの間に整理編集されたものである。第一巻には国名・群名・風俗など総を記し,第二巻から第八巻までは広島五組及び新開について町村別に詳説している。第九巻から第二十四巻は寺社別の位置,沿革,第二十五巻は広島城のことを記している。「新修広島市史」の第六巻「資料編その一」に全巻収録されている。 名称

    広島県の文化財 - 知新集 - 広島県教育委員会
  • 企画展示室 - ひろしまWEB博物館

    与楽園は享和元年(1801)、広島藩7代藩主浅野重晟(あさのしげあきら)により造られた別邸(中屋敷)で、水主町(かこまち)屋敷とも呼ばれていました。文政8年(1825)には建物・庭園に大幅な改修が加えられました。庭園は中央に池を設け小島を配した回遊式で、己斐から松200が移され、厳島や瀬戸内の島々が眺望できたそうです。 その後、県立広島病院の付属地となり、一般にも公開されていましたが、中島尋常小学校の建築の際に庭園の規模は縮小され、戦後の復興の中で消滅しました。現在、中島小学校の敷地の北西隅には、当時を偲んだ「与楽園」と呼ばれる庭があります。

  • 本地村の石室 - 環藝録

    『猿の国郡志』での項目名は「石室」と書いて「イハヤ」のフリガナ。石見の「志都か岩屋」などを傍証に挙げているところを見ると、この施設(実際は横穴式石室)のあるべき呼称として「イハヤ」を選択したのであって、「里俗」で一般的に使われていたとされる「石風呂」「石塚」という単語では来の用途を正しく表していないという判断が働いている。 『藝藩通志』の「石窟」(上入江村)は「イハヤ」の漢語表現のようなものか。 石室 里俗は石風呂または石塚といふ、これは当村に限らす外村他郡にもいと多きものなり、山中に大石を集めて穴を構ふ、奥に入こと五六間、高さ六七尺、広一間、天井には大なる平石を覆ひ何れも南の方に少しの入口あり、上には土をかけ、其造りさま中古の人の及ふかきりにあらす、又この石室のある少し脇に同形の小なるあり、これも南の方に入口ありて、奥行三四間、広さ二三尺に過す、(略) 村内の具体例として、奥行5〜6間

    本地村の石室 - 環藝録
  • 広島市安佐北区・神社の棟札に歴史体感 | 中国新聞デジタル

    落合南7丁目の吉備津神社で、同神社の棟札5枚を展示する「必見!棟札初公開」があった。真亀公民館が主催。重英明氏子総代長、共催した落合郷土史研究会の重義之、今岡一則両研究員が案内人を務めた。 同神社は、文禄4(1595)年に勧請(かんじょう)され、その後400年以上、地区の氏神社として五穀豊穣(ほうじょう)、家内安全を祈願する場として続く。最も古い棟札は建物、社殿の護符とされた文政11(1828)年のもので、防災の願文、守護神などが記されている。最も新しいのは昭和11(1936)年のもので、参加者は説明を熱心に聞きながら歴史の重みを体感した。 黒川章男さん(75)は「棟札は貴重な資料で、手入れよく保存されていたことに敬意を表したい」と話していた。落合南8丁目の諸木会館では、市の重要無形文化財である「諸木十二神祇神楽」の衣装や面などを見学する会もあった。(中野光延)

    広島市安佐北区・神社の棟札に歴史体感 | 中国新聞デジタル
  • 2010-08-10

    そんなわけで、鹿老渡の開発が近世以降のこととなると、その語源は古代の「韓亭」とは別のものに求められたりする。 新見吉治「倉橋島及鹿島の古墳」*1は副題として「(鹿老渡地名考)」とあるように、倉橋島南部の古墳発見例を鹿老渡の語源に絡めて考えている。 「この辺に夙く古墳の崩壊して石槨か石棺の露出せるもの」が「石のからうど」と呼ばれるものに相当するとして、現地の事例を確認している。 遠見山の小字岩谷にある古墳(もと遠見山古墳・現岩屋古墳)は、当時「行者の窟」*2と呼ばれた横穴式石室で、もしもこの石室が鹿老渡の語源であるならば、鹿老渡の開発されたという享保年間以前に既に石室が露出開口していたのであろう*3と推測している。 もしくは、鹿老渡の西隣の(棚田で著名な)鹿島では、開墾当時、山頂・山腹からたくさんの「石の箱」(箱式石棺)を掘り出したとの話を聞くとともに、畑の排水道として残る「石の箱」を確認し

    2010-08-10