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さらに川下の甲田町甲立。 国道から智徳橋を渡ると甲立駅に通じる。 橋からどちらを眺めても鷺が点々とたたずんでいる。 村ごとの『国郡志御用ニ付下調書出帳』の「物産」「鳥の類」を並べると、同じ江...
南方村の「下調帳」*1は「但し」と続けて、 但し芸備国郡誌■油塚の石函西条に在りと有之由この石船の事にて西条とは地名を謬るもの 『南方村国郡誌編改御用書上帳』沼田文化研究会.1992 とある。旧国郡...
日本最古の「鯰絵」の文言が出てくる文書と判明した江戸時代の古文書写真を見る賀茂神社に伝わる白ナマズの絵馬。今回の文書の「鯰絵」との関わりは不明だ写真を見る 「ナマズの神様」として親しまれて...
たたら製鉄に起源を持つ江戸時代の上方の豪商、平瀬家ゆかりの大雲寺(兵庫県宍粟市山崎町上寺)でこのほど、建築年不詳だった鐘楼堂の改修工事現場から、文政6(1823)年の建物であることを示す...
伊東玄朴の旧宅から見つかった建築部材。「文政四年巳ノ七月作之」と記されている=神埼市の旧古賀銀行神埼支店 神埼市神埼町的にある佐賀県指定史跡「伊東玄朴旧宅」の建築年代が分かる建材が見つかっ...
【解説】 「知新集」は,江戸時代における広島町奉行管内(町組と新開組,すなわち旧広島市域)の地誌としてほとんど唯一で,しかもきわめて詳細な文献で,広島藩地誌「芸藩通志」の編集の下調査書の一...
市内万田の愛宕神社にある神輿の芯柱に「文政元年(=1818年)」と記されていることを、神輿保存会の愛神会(吉川尚良会長)が発見した。神輿が今からちょうど200年前に造られた証拠になるので...
与楽園は享和元年(1801)、広島藩7代藩主浅野重晟(あさのしげあきら)により造られた別邸(中屋敷)で、水主町(かこまち)屋敷とも呼ばれていました。文政8年(1825)には建物・庭園に大幅な改修が加え...
春日大社(奈良市)の神職の家が並ぶ「社家(しゃけ)町」だった同市高畑町で、唯一残る社家(禰宜(ねぎ)家)住宅として貴重な「藤間(とうま)家住宅」の保存活動に伴う調査で、江戸時代に神前に供...
『猿の国郡志』での項目名は「石室」と書いて「イハヤ」のフリガナ。石見の「志都か岩屋」などを傍証に挙げているところを見ると、この施設(実際は横穴式石室)のあるべき呼称として「イハヤ」を選択...
文政五年の加賀藩史料から時の記録を抜粋しました。 表現としてはほとんどが不定時法ですが、一部定時法の表現があります。 これは公式な時の場合使用されています。
7月に本堂など9棟が国重要文化財に指定された大田原市黒羽田町の大雄寺(だいおうじ)で11月4~30日、宝物収蔵庫「集古館」が特別公開される。黒羽藩主、大関氏の家紋入り甲冑(かっちゅう)や...
中国新聞では、市民の皆さんに地域の話題…
古いびょうぶの下張りから、鳥取藩主池田家に仕えた武士が江戸から妻にあてた手紙が大量に見つかった。妻から江戸にいる夫にあてた手紙も含まれ、確認されただけで約180枚になる。参勤交代や江戸暮...
『続群書類従』編纂と真福寺文庫--文政2年時の塙保己一による真福寺文庫訪問の実態調査を通して Study on the Research in Shinpukuji-Library in the Second year of Bunse Era (1819)
そんなわけで、鹿老渡の開発が近世以降のこととなると、その語源は古代の「韓亭」とは別のものに求められたりする。 新見吉治「倉橋島及鹿島の古墳」*1は副題として「(鹿老渡地名考)」とあるように、...
賀茂郡ではもっぱら「火の釜」の呼称でまとめられている。 『国郡志御用郡辻書上帳 賀茂郡 文政二年卯五月』に「寺家村熊野跡村書上帖ニ相見」と、記載のある2ヶ村を挙げるだけでなく、「西條庄高屋...
世羅台地を蛇行しながら西から東へ流れる芦田川。大和町蔵宗(現三原市)に発し、世羅町・府中市を経て福山市で瀬戸内海へ注ぐ。 『芸藩通志』では世羅郡部分(上流)を「大田川」とする。その当時の村...
「給人原古墳群」は可部古墳群の中で西に離れたところにある。現状では墳丘と天井石を残してなおかつ開口しているものは1基のみ。 天井石や壁の高さを失うと、ただの凹みになって「人穴」とは異なる解...
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