出版されたばかりの、船山徹『仏典はどう漢訳されたのか―スートラが経典になるとき』(岩波書店、2013年12月)を読みました。 仏教が中国にはじめて伝えられたのは、前漢時代のことであったようですが、後漢時代、二世紀ごろにもなると、いくつもの仏教経典が漢語に翻訳されるようになります。「漢訳仏典」と呼ばれるものです。本書は、翻訳文献としての漢訳仏典に焦点を合わせた、はじめての本格的な概説書です。 長い歴史を持ち、現代にも生きている漢訳仏典。葬儀や法事で僧侶があげるお経や、『般若心経』の写経などを通じ、日本人にとっても馴染み深いものです。また「縁起」「輪廻」「世界」などのことばも、すべて漢訳仏典に由来します。 そんな親しみのあるものについて、総括的な概説書がこれまでなかったことは、奇異にすら感じられるかもしれません。しかし、漢訳仏典の概説を書くためには、並外れた力量が必要で、インド・中国のみならず
千提寺西遺跡の2基のキリシタン墓。右の墓穴に人骨があった=大阪府茨木市千提寺千提寺西遺跡周辺の地図 「隠れキリシタンの里」として知られる大阪府茨木市千提寺(せんだいじ)の千提寺西遺跡で、16〜17世紀のキリシタン墓を確認したと19日、府文化財センターが発表した。長方形の墓穴がキリシタン墓の特徴で、発掘例は全国で6番目だが、キリシタン禁教令の後も壊されず、中・近世の仏教墓と混在している点は類例がないという。 現場は新名神高速道路の建設予定地。千提寺地区はキリシタン大名・高山右近の旧領地で、重要文化財の聖ザビエル像(神戸市立博物館蔵)など、キリシタン関係の資料が民家から多数発見されている。 同地区の丘陵上で発掘された墓穴群のうち、2基が長方形で、遺体は体を伸ばして横たえられ、埋葬されたとみられる。墓穴の上には石を長方形に並べた石組みもあった。大阪府高槻市の高槻城(16世紀後半)や東京都の
新ローマ教皇フランシスクス1世が選出されたということで,なんかキリスト教*1ネタが盛り上がっているので,異教徒からはわかりにくい,というよりもおそらくキリスト教徒ですらよくわかっていないような気がするキリスト教の諸宗派について,キリスト教徒ではないけれども出しゃばって書いてみたい。教義には殆ど踏み込みません。 なお新教皇の教皇名を多くの報道機関(NHK,時事通信,讀賣新聞,AFP通信など)が「フランチェスコ」とイタリア語読み(ローマ駐在の記者が書いたから?)で表記する中,おそらく唯一日本における西方教会の人名の慣用表記「フランシスコ」と表記した朝日新聞はもっと褒められていいと思う*2。 「キリスト教」が一枚岩ではないことは学校で教わるだろう。おそらく様々なメディアで主要な教派として挙げられるのが,・カトリック・プロテスタント・正教会の3つだろうとは思うが,実はそれぞれの内実は相当に多様であ
もう3月に入ってしまったということが信じられないが(ついこのあいだ年が明けたばかりだというのに!),このタイミングで去年出た東欧および隣接する諸地域の歴史についての日本語書籍の中でわたしがチェックし得たものを紹介してみようと思う。 以下のエントリで取り上げた本については取り上げないのであしからず。 「帝国」の想像力――『オスマン帝国と立憲政』『ロシア・シオニズムの想像力』の射程 - Danas je lep dan. ヨーグルトが育むナショナリズム――マリア・ヨトヴァ『ヨーグルトとブルガリア』について - Danas je lep dan. 『ハプスブルク君主国1765-1918』『「イタリア」誕生の物語』読書メモ - Danas je lep dan. 『西洋史学の先駆者たち』『英連邦』読書メモ - Danas je lep dan. スターリン期の大量死の評価をめぐって――ノーマン・ネ
交易国家だった琉球は東南アジアのイスラム諸国とも交流がありましたが、なぜか琉球でイスラム教が普及することはありませんでした(こちら参照)。 なぜ琉球の人々はイスラム教を受け入れなかったのか。唯一アラーの神を信じる一神教が沖縄の宗教世界になじまなかったのかとも考えましたが、真相はもっと単純だったのではないかと思いつきました。 イスラム教の教義には、ブタは不浄な生き物として絶対食べてはいけないというものがあります。沖縄の人々はこれがダメだったのではないでしょうか。沖縄に肉食をタブーとする文化はありません。ブタをさかんに食べるようになるのは近世に入ってからですが、それ以前ももちろん食べていますから、「あんなにおいしいブタ肉を食べたらダメだなんて、ならイスラム教信じない!」と思ったのかもしれません。 真相は不明ですが、当時の琉球人の立場に立って考えてみると、この推測も意外と的外れではないのではない
ダライラマ法王と入れ違いに来日したブータン国王は、連日メディアで大きく取り上げられ、日本中の人がこのヒマラヤの小さな国について知ることとなった。 ブータンの国教はチベット仏教の一派ドゥクパ・カギュ派であり、17世紀に中央チベットでの政争に敗れたガワンナムゲル(1594-1651)がブータンに根拠地をうつして、僧王を戴く政教一致の体制を作り上げ、現在に続くブータンが始まった。中央チベットに政教一致のダライラマ政権がうまれるほんの少し前のことである。 つまり、ブータンとチベットは政治的に対立することはあっても、文化は同じチベット仏教圏なのである。 今のブータン王家は約百年前に、ブータンのダライラマに当たるシャブドゥン猊下から政治権力を委譲されて生まれたもので、それでも国王はチベット仏教の信徒であり、チベット仏教はブータン人の精神性の形成に非常に大きな役割を担っている。 あのブータン国王の強さ、
被災地での法要を終えたダライラマは7日に離日し、次の滞在地であるモンゴルに向かった。 最終日、ダライラマ法王は自由報道協会という会(記者クラブに反対するフリー・ジャーナリストが立ち上げた会)の主催で記者会見を行った。その模様はニコニコ動画やユーストリームで誰でも見られる形でリアルタイムに公開されたので、多くの人の目に触れることとなった。 わたしは最初ニコ動で見ようとしたら視聴者が多すぎてはじかれ、プレミアム会員にならないとダメと言われたので、ユーストリームの方で見た。ちょうど、日本赤軍の重信房子の娘さんとかがパレスチナ問題について法王に質問するところから見だした。後ですべての内容がネットにアップされたので、最初の方も知ることができた。 まず、最初法王から今回の来日の目的が高野山大学における灌頂であること、また、震災49日法要の時と同じく、津波・地震の被災者にメッセージを送るためであることが
今まで何となく買いそびれていた、内田道夫 編『北京風俗図譜』東洋文庫 を購入したので、パラパラ捲ってフムフム言ってます。オンデマンド版だと図版が大きくて些かお得気分です。なんか東洋文庫のサイズだと図版ちっこそうで躊躇していた部分はあるんですよねぇ…。で、寡聞にして知らなかったんですが、これ絵画部分は青木正兒センセが留学してた時に現地の絵師雇って書いて貰ったモノの様ですね。もっともこの本の肝は各画の解説部分にあるので、注釈を付けた内田道夫センセの本だと言うコトは間違いないんですけど。 で、パラパラ捲っているとこんな記事に遭遇。 神仏をまつる寺廟にも、それぞれはやりすたりはあるが、北京城内のそれは、いずれも整頓されたものが多かった。前門の関帝廟は『三国志』で有名な関羽の霊をまつるもので、鼓楼の関帝廟とともに人を集め、つつましやかな男女の神前にぬかずく姿が見られた。明の成祖永楽帝が蒙古王ベンヤシ
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