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そ_ソヴィエトに関するbitheibooのブックマーク (2)

  • 康煕帝諸皇子の王府3

    と、前回の続きで康煕帝の皇子達の王府の位置を再度調べて見ました。 文に入る前に、以前に作った地図を《清北京歴史地図》iで不明確だった王府の位置を特定したり、後で入手した資料で補強した地図を提示しておきます。 思ったほど偏ってはいないんですが、何故か西南隅には王府がなかったみたいなんですよねぇ…。折角地図にしたのでちょっと八旗の居住地と王府の位置関係も確認して見たのですが今ひとつよく分かりませんでした。あと、平西府と密雲県博物館もチェックしてます。 12:履親王府☞東直門内針銭胡同 東西寛街 宸垣識略‥履親王府、固山誠貝子府、倶有東角樓寛街。謹案‥王諱允祹、聖祖十二子、乾隆間任議政、諡懿。再傳無嗣。高宗以四子履端親王永誠繼之、今爲楙公第、在後海南。嘯亭續録云‥府在北小街。ii 謎の十二阿哥は王府も謎ですね。どうやらロシアと関係が深い土地柄だったらしく、十二阿哥の在世中からロシア正教の教会が

    康煕帝諸皇子の王府3
  • 『アファーマティヴ・アクションの帝国』 テリー・マーチン著 : 書評 : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    アファーマティヴ・アクションとは、アメリカ歴史政治で使われる用語である。 差別に苦しめられてきたエスニック集団の人びとを優遇する政策のことだ。著者は、ソ連こそ世界史上初めて少数民族のためのアファーマティヴ・アクションを実現した国家と考える。地元民幹部の積極的登用や民族語の公用語化などがその具体例である。 レーニンやスターリンは、ナショナリズムの巨大な力を見抜き、これを社会主義に利用するために民族の枠組や形式をつくることで、反革命を団結させるナショナリズムの力を骨抜きにしようとした。ナショナリズムの武装解除を、民族らしい形式を整えながら実現しようとした戦略こそ、「アファーマティヴ・アクションの帝国」だったというのだ。 ナショナリズムは動員力のある極めて危険なイデオロギーであり、階級を超える結束をもたらしかねなかった。レーニンたちは、民族意識も歴史が通過すべき一段階であり、非ロシア人による

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