沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡で歴史的な発見が相次いでいる。海の貝で作った道具の「貝器」、人骨と石器、そして「埋葬人骨」――。一つの遺跡から貝器、石器、土器がそろって見つかるのは貴重だが、日本人の来歴を巡る議論にも大きな影響があるという。 沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡そばの駐車場には、国内最古級とみられる「埋葬人骨」の見学会に参加する車が続々と押し寄せた。冬の野外にもかかわらず、見学者からは高揚し
アジア各地へ交易活動を展開していた15世紀の琉球王国ですが、16世紀に入ると倭寇をはじめとした民間勢力の台頭で貿易は衰退し、1570年のシャム(タイ)派遣船を最後に東南アジア貿易は途絶した、というのがこれまでの通説です。 しかし、史料を探っていくと1570年以後も東南アジア貿易は続いていたことがうかがえます。 1598年には、堺商人の川崎利兵衛が琉球の「南蛮才府」に任命されています(『蒙姓家譜』)。彼は茶器を求めて琉球へたどり着き、そのまま定住して王府役人に登用された人物。「南蛮」とは東南アジア、「才府」とは現地で貿易品の買いつけを行う役職です。おそらく商才を買われ、王府にスカウトされたのでしょう。家譜には年月日が記載されてることから、家譜編集当時に南蛮才府の辞令書を参考にした可能性が非常に高いです。 さらに万暦年間(1573~1619年)には、ルソン(フィリピン)へ交易におもむいた新垣筑
近世(江戸時代)の琉球は中国(清朝)の朝貢国でありながら日本の幕藩制国家にも従属する国家で、中国と日本に使節をそれぞれ派遣していました。中国へは北京の皇帝のもとへ朝貢使節を派遣していたことはよく知られています。一方、日本へは江戸の徳川将軍と薩摩藩の島津氏のもとへ不定期ですが使者を派遣して服属の儀礼を行っていました。いわゆる「江戸上り」と「中城王子上国(じょうこく)」です。 このような歴史的な性格から、琉球では当時の東アジアでも珍しい体験をする人物が登場します。その一人を紹介しましょう。彼の名は毛維基(もう・いき、城田親方)。久米村の毛氏5世で、元祖は17世紀に中国から渡来した華人です。維基は久米村行政のトップ(総役)の地位についたエリートで、書道や芸能にも通じていました。彼は何と、中国皇帝・徳川将軍・琉球国王という3カ国の「元首」に会ったことのある人物なのです。 1752年、国王尚穆(しょ
先日明らかにされた東京都による尖閣諸島購入計画については、実効支配という観点からいえば、はっきりいって無意味だと思う。そもそも、この島々はもともと日本側が実効支配しているのである。だいたい現在も国(総務省)が借り受けているのだし。公有地にすることで管理が安定するというメリットがあるとしても、所有すべきなのは国・沖縄県・石垣市のいずれかであって、直接何の関係もない東京都が出張ってくる意味は無い。 私有地のままにしておくと外国政府が購入する恐れがある、と心配される向きもあるかもしれないが、国内法上の土地所有権と、国際法上の領有権とは別の概念である。だいたい、日本の国内法に基づいて土地を購入し、その土地を不動産登記したとすれば、とりもなおさず、日本政府によるその土地の領有権と管理権を認めていることになってしまう。したがって、本気で尖閣諸島の領有権を主張するつもりがあるのなら、尖閣諸島の土地を日本
交易国家だった琉球は東南アジアのイスラム諸国とも交流がありましたが、なぜか琉球でイスラム教が普及することはありませんでした(こちら参照)。 なぜ琉球の人々はイスラム教を受け入れなかったのか。唯一アラーの神を信じる一神教が沖縄の宗教世界になじまなかったのかとも考えましたが、真相はもっと単純だったのではないかと思いつきました。 イスラム教の教義には、ブタは不浄な生き物として絶対食べてはいけないというものがあります。沖縄の人々はこれがダメだったのではないでしょうか。沖縄に肉食をタブーとする文化はありません。ブタをさかんに食べるようになるのは近世に入ってからですが、それ以前ももちろん食べていますから、「あんなにおいしいブタ肉を食べたらダメだなんて、ならイスラム教信じない!」と思ったのかもしれません。 真相は不明ですが、当時の琉球人の立場に立って考えてみると、この推測も意外と的外れではないのではない
サッカーJ2第4節第1日は16日、各地で8試合がある。13位の鹿児島ユナイテッドFC(鹿児島U)は午後3時から、鹿児島市の白波スタジアムで3位の千葉と対戦する。前節初黒星を喫した鹿児島Uは、先制点を奪って主導権を握りたい。 続きを読む >>
芸能・文化 『蔡温の言葉―琉球宰相が残した物語り』 現代に通じるメッセージ2011年6月26日 Tweet 『蔡温の言葉―琉球宰相が残した物語り』 佐藤亮編著 ボーダーインク・1680円 「高校や大学時代にこの本に出逢いたかった」。これが本書を読み終えての率直な感想である。激動の時代、若い皆さんはどのように生きているだろうか。本書は、若者にとって生きるヒント(示唆)を与えてくれる一冊となっている。 皆さんの尊敬する人は誰だろうか。両親、家族、先生、歴史上の人物等とさまざまだろう。私が尊敬している人物の一人として、琉球王国史上最大の政治家であり、技術者であった「蔡温」がいる。私の出身である本部町備瀬は、風水により国土再編を行った蔡温の時代にフクギ並木が整備されており、幼いころから不思議な縁を感じていた。 そして、本書の編著者である佐藤亮氏も蔡温に魅了された一人である。経歴も情報技術(I
中国との朝貢関係を結んでいた琉球では、福建省の福州に琉球館(柔遠駅)という滞在施設があり、ここに琉球人のスタッフが常駐していました。当然、現地では中国語を話さなくてはなりませんので、言葉を学ぶための中国語のテキストがありました。このテキスト、受験用のものではなく、超実践的!現地で実際に起こる状況を想定しての会話集です。 それでは王国時代の中国語テキスト『学官話』の一部を見てみましょう。 【レッスン1】中国の悪ガキに怒りをブチまけよう おまえという子は、私があなたをからかってもいないのに、どうして私をののしるのだ。家庭教育もなっていない、このろくでなし!もともと中国は礼儀を重んじる国だと聞いていたのに。お前のこんな行動や話し方を見ていると、私は中国へ勉強しに来たのに、学ぶべきことが何にもないという気になるよ。 (這個小孩子!我又不惹你。你來罵我做什麼。没家教的雑種!原説中國有道理的。看你這樣
大正時代の沖縄にあった匿名掲示板「読者倶楽部」。 100年前の人間模様を紹介。 投稿は全て当時の沖縄の人が書いたそのままの文章です。 大正時代の沖縄にあった匿名掲示板「読者倶楽部」。 100年前の人間模様を紹介。 投稿は全て当時の沖縄の人が書いたそのままの文章です。 645 名前:首里尋常高等小学校伊波村生:1914(大正3)/10/5(月) (>>632の続き) 第二信、早朝起き出でて出発支度に取り掛かり候(そうろう)。夕べの雨はまだやまず、雨をおかして出発いたし候。学校を午前8時に出発いたし候ところ、雨はますますはげしく相成り候。昨日の難儀も忘れて掛け■すありさまは、まことに首里小学校の健児だと、ただに感服のほかこれなく候。 雨におそわれて道迷いをいたし
【お知らせ】 河出書房新社より『マンガ沖縄・琉球の歴史』発売中です!なじみのない沖縄の歴史をサクっと理解することができます。購入は【こちら】から 上里隆史への講演・執筆などのご依頼は→右の【プロフィール】からお願いいたします。 ・講演実績やプロフィールは→右の【プロフィール】をクリックしてください。 ・ご依頼につきましては、すべてメールで承っております。上記アドレスに (1)ご依頼の内容 (2)日程、スケジュール (3)講演料・執筆料のご予算 などの詳細を【明記】してご連絡ください。よろしくお願いいたします。 ※明記のない場合はお返事したしかねますので、どうぞご了承ください。 ・琉球史マンガは、noteにて引き続き連載しております。【こちら】です。 ※ツイッターは【こちら】 10年前(2005年)の今日、4月11日にこのブログ「目からウロコの琉球・沖縄史」を始めました。 【10年前の最初の
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