【新華社石家荘8月5日】河北省ギョウ(業+おおざと)城遺跡の城門の一つ、広徳門の発掘調査で、先ごろ地下に埋まった焼けた土と炭の塊が見つかった。これにより「六朝の古都」ギョウ城が後に隋の初代皇帝となる楊堅によって、西暦580年(北周大象2年)に焼かれたという歴史書の記載が裏づけられた。同省臨ショウ(さんずい+章)県の文化財担当機関が明らかにした。 同遺跡は全国重点保護文物で、同県の県都の南西部、ギョウ鎮、三台村一帯に位置する。春秋時代に斉の桓公が築き始め、西暦580年に楊堅によって焼かれた。曹魏(西暦220~265年)、後趙(319~351年)、冉魏(350~352年)、前燕(337~370年)、東魏(534~550年)、北斉(550~577年)の六朝が都を置いた。約400年間、黄河流域の政治、経済、軍事、文化の中心地で、「六朝の古都、三国志ゆかりの地」と言われている。 遺跡は南北に連なる二
唐の李氏が西魏のときに大野氏を賜姓されたことから、李氏が「鮮卑大野部」の出身であるとする説があるけれど、これの実態はよく分からない。まず「大野部」というずばりそのものの語は正史にみえない。宇文部・慕容部の語が『魏書』や『北史』に見え、段部が『晋書』に見えるようなのとは異なる。大野という部族の記述もまた見えない。あるのは大野を名乗る人物か、大野を賜姓された人物かのどちらかだけである。 正史中に登場する大野氏というと、唐の李氏を除けば、 大野拔(『魏書』巻80列伝68、『北史』巻49列伝37ほか、樊子鵠を殺害した人物) 大野胡也杖(『北史』巻36列伝24、大野拔と同一人物か) 閻慶とそのふたりの子(『周書』巻20列伝12、『北史』巻61列伝49、賜姓大野氏) 大野樹兒(『周書』巻25列伝17、『北史』巻59列伝47、都督) くらいしか見えない。 これらの人物同士の関連もはっきりしないので、「大
隋の文献独孤皇后(独孤伽羅)の生年には西暦544年説と西暦553年説がある。 独孤皇后は隋の仁寿2年(602年)8月甲子に亡くなったことが分かっている。これは『隋書』と『北史』共通の記述なのでほぼ間違いない。 問題は享年で、『隋書』后妃伝には「時年五十」とあり、『北史』后妃伝下には「時年五十九」とあること。前近代の歴史書の享年は数え年で書かれるのが原則なので、『隋書』の享年50を採ると西暦553年生まれになり、『北史』の享年59を採ると西暦544年生まれになる。 どちらが正しいのか。 独孤皇后の長女に楊麗華という人がいるのだが、この人は隋の大業5年(609年)に享年49で亡くなっている(『周書』后妃伝)ので、西暦561年生まれ。もし独孤皇后が西暦553年生まれだったら、数え9歳で長女を産んだことになってしまう。独孤皇后が隋の文帝楊堅と結婚したのは14歳のとき(『隋書』と『北史』共通)なので
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