中国政府はラサで再び歴史的建築物の一つを自分たちの都合のいいように、歴史を書きかける道具として修復、復元した。今回はジョカンの北にあるトムシカン。清朝時代には「駐蔵大臣」の住居として使用されていたこともある、300年に及ぶ歴史を持つ建物である。 これをいつものように「チベットは嘗てより中国の一部であった」という虚構の偽の裏付けとして「歴史陳列館」という観光施設の一つとしてオープンしたのだ。この清朝時代の「駐蔵大臣」は清朝の大使のような役割を担っていただけであり、決してこれをもってチベットが清朝に属していたという証拠にはなり得ない。それ以前に第一、満州族の王朝である清朝がどうして現在の中国共産党の前身になり得るのか?いつもながら2重に不思議で理解不能な解釈である。 以下、ウーセルさんが7月24日のブログでこの建物復元について多くの写真と共に詳しく報告されているのでこれを紹介する。 原文:改写
2012年12月31日に起きた、台湾とモンゴルの関係の転機について。歴史四方山話満載でなかなか面白いネタである。主にRFI中国語を参照した。 Ulan Bator (Mongolia) / Mario Carvajal ■清朝・理藩院の名残、蒙蔵委員会が消滅 現在、中華民国が統治しているのは台湾に限定されるが、建て前としては清朝の後継国家として中国本土の領有権も主張している。その中国本土の中でもチベットや新疆、甘粛省など旧藩部を統括する部局が蒙蔵委員会だ。清朝の理藩院からの組織割りが21世紀の今まで残っていたという次第。 台湾行政院の組織改組に伴い、2012年12月31日を持って消滅。業務及び人員はモンゴル処、チベット処として大陸委員会に所属することになった。 ちなみにモンゴルもチベットも統治していなかったのに70人のスタッフがいたとのこと。業務としては台湾在住のモンゴル人、チベット人絡み
ダライラマ法王と入れ違いに来日したブータン国王は、連日メディアで大きく取り上げられ、日本中の人がこのヒマラヤの小さな国について知ることとなった。 ブータンの国教はチベット仏教の一派ドゥクパ・カギュ派であり、17世紀に中央チベットでの政争に敗れたガワンナムゲル(1594-1651)がブータンに根拠地をうつして、僧王を戴く政教一致の体制を作り上げ、現在に続くブータンが始まった。中央チベットに政教一致のダライラマ政権がうまれるほんの少し前のことである。 つまり、ブータンとチベットは政治的に対立することはあっても、文化は同じチベット仏教圏なのである。 今のブータン王家は約百年前に、ブータンのダライラマに当たるシャブドゥン猊下から政治権力を委譲されて生まれたもので、それでも国王はチベット仏教の信徒であり、チベット仏教はブータン人の精神性の形成に非常に大きな役割を担っている。 あのブータン国王の強さ、
被災地での法要を終えたダライラマは7日に離日し、次の滞在地であるモンゴルに向かった。 最終日、ダライラマ法王は自由報道協会という会(記者クラブに反対するフリー・ジャーナリストが立ち上げた会)の主催で記者会見を行った。その模様はニコニコ動画やユーストリームで誰でも見られる形でリアルタイムに公開されたので、多くの人の目に触れることとなった。 わたしは最初ニコ動で見ようとしたら視聴者が多すぎてはじかれ、プレミアム会員にならないとダメと言われたので、ユーストリームの方で見た。ちょうど、日本赤軍の重信房子の娘さんとかがパレスチナ問題について法王に質問するところから見だした。後ですべての内容がネットにアップされたので、最初の方も知ることができた。 まず、最初法王から今回の来日の目的が高野山大学における灌頂であること、また、震災49日法要の時と同じく、津波・地震の被災者にメッセージを送るためであることが
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