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部屋探し&お引越し
orion12.hatenablog.com
ここでいうところの『呪詛』というのは「誰かに対してエネルギー的に眼に見えないカタチでネガティヴな影響を与えようとする方法または手段の全て」とお考えください。 マジナイ・ノロイ・呪術・念送りなどと呼ばれる類いのモノもすべて含みます。 一般的に使われる『呪詛』という言葉の意味より随分範囲が広くなっていますが、他にピッタリ当てはまる言葉も中々無いのでそんな風に使わせてもらっておりますm(_ _)m 世間一般でいう呪いの類いっていうのは「古くから行われていた呪術を伴うモノ」として認識されている気がします。 丑の刻参りみたいな特殊でオドロオドロしい独特な儀式を伴うようなものとしてです。 っていうかそういう『儀式ありき』でしか成り立たないモノと思われている節があります。 『呪詛』を行う場合の技術や方法論が一番大事と考えられているのです。 でも、呪いの方法が古来からのやり方に合ってるから『呪詛』なのでは
私はヒーリングに関して所謂一つの伝授っていうものを受けたことはありません。 伝授という専門用語を使う場所にも行ったことがないのです。 だから、それがどういったモノか伝聞でしか知らないのですが、ある方によると伝授というのはものすごく苦しい場合があるということらしいのです。 「 あるヒーリング伝授を受けた時は涙が止まらなくなるほど頭が痛くなり1週間寝込むほどだった。また別のヒーリングの伝授を受けた時はシンボルとか覚えようとするだけで激しい腹痛が起きた。」 こんな感じらしいです。 もし私がその人の立場ならどちらのヒーリングもさっさと止めてしまったでしょうけどね… だって、ヒーリング習ったら無茶苦茶身体痛くなるなんでどう考えても不自然ですよね。 そんな不自然な痛みを与えるようなものが癒しになるとは到底思えないのです。 ただ、その方はそれを毒出しのようなものと捉えられたようです。 「伝授されることで
人間生きてれば笑いもすれば泣きもします。 怒ったりも羨んだりもするものです。 快楽もあれば苦痛もあります。 そうした身体や心に起こる大波小波を日々乗り越え、また乗り越えてゆくのが『人間の日常』なんだと思います。 そういった『人間の日常』に根ざしたありふれた平衡感覚を先ず大切にすることが、心がオカシげな方向を向いて突っ走らないようにするための最終的な羅針盤になるのです。 それは例えば「(理由は分からないけど) 何だかこれ食べたら危ないぞ⁉︎」という所謂『勘』や「(特に何があったわけではないけど) この店何か良くないなぁ(ー ー;)」という感覚のことです。 生きるためにこの世の動物に遍く与えられた危機察知能力と申しましょうか… つまり、勘ってのは選ばれた特別な人だけが持つ特殊能力などではないということです。 それどころかどこにでも誰にでもある、もっと言えば人間以外の生物も持っている生きるための
例によって例のごとくですが、今回改めてヒーリングについてあれこれ述べてみたいと思います。 ここで語るのは、あくまでも私の行なっているヒーリングについてであることを先に申し上げておきます。 他のヒーリングにはまた別の考え方ややり方があるでしょうからね。 癒しとは楽になることです。 楽になるとはダラダラと安直に怠惰に過ごすという意味ではなく、「それぞれが元々持っている自然で無理のない状態に戻る」ことです。 謂わばニュートラルに戻るということです。 ヒーリングとはその「楽になること」をお手伝いすることです。 主体は何時もヒーリングを受ける側のほうにあります。 例えて言えば、歩きにくい人のための杖や見えにくい人のための眼鏡みたいなものなんじゃないかな~と思うのです。 今まで何度も書いてまいりましたが以上がクリアー整体ヒーリングでいうところの『ヒーリング』という言葉の意味です。 このブログ内で使われ
チカラ比べには終わりがありません。 いつまで経っても何処まで行っても上には上がいるからです。 眼に見えないチカラであれ、目に見える現実的な力であれね… なので、チカラ比べを続ける限りいつでも相手をねじ伏せられるだけの『より強くより大きなチカラ』を求め続けなくちゃなりません。 そうしなければ、いつの日か相手からねじ伏せられてしまう日が来るかも知れないからです。 そうでなくても相手がいる限りはいつも一方的なやりたい放題が出来るとは限りません。 常に『返り討ちに遭う可能性』は存在するってことです。 返り討ちにまで会わなくても所謂『返り血』くらいは浴びるかも知れないです。 そういうことを長く続ければ続けるほど所謂『返り血』を一滴も浴びない可能性は限りなくゼロに近付いていくでしょう。 そこにあるのは『斬った張った』の殺伐としたココロの世界です。 やってやられて、やられてやって…何処まで行ってもキリが
私は自分のことをいつでも必ず正しいなどとは思わないようにしています。 「そこそこイケてることは言ってんじゃないの〜」くらいには密かに思ってますがね(笑) 人間誰しも間違うこともあるし、勘違いしてしまうこともあります。 「それがあって当然だろう」という前提に立ってるくらいでちょうどバランスが取れるんじゃないでしょうか。 最近はよく「自分に『ブレない軸』だの『中心』だのを持ちなさい」って方がいらっしゃいます。 でもね、そういう軸やら中心やらにもコペルニクス的な転回っていうのが容赦なく起こるかも知れません。 少なくとも起こる可能性はどんな時もゼロじゃないのです。 ゼロじゃないって前提で考えていかないとかえって心は迷います。 逆にいえば何であれ「100%手放しで信じ込むのは、危険だ」ってことです。 それがどんなに「自分にとって生き方の核心となるような大切な部分であったとしても」です。 簡単にいえば
眼に見えない世界に真摯に向き合えば向き合うほどアマゾンの密林に踏み込んだ生物学者のような気分になるはずです。 『発見』がそこら中に転がっている世界だってことです。 アマゾンとか行けば新種の生物がわんさかいそうですからね。 多分人類の知らない生き物がそこら中に当たり前に居るんだと思います。 我々のいるのはそういう世界だってことです。 そういうっていうのは「人間の無知に基づく新発見が溢れる世界だ」ってことです。 発見がそこら中に転がってるってのを逆にいえば「知らないことだらけ」ってことです。 もっと簡単に言えば「生身の人間ってのは一人残らず無知に溢れている」ということです。 でも、実際はどうかといえば所謂スピリチュアルな世界の人々の多くが「自分は見えない世界の全てを知り尽くしているぜ」って感じを醸し出しています。 簡単にいえば分かったつもり満々なわけです。 そもそも所謂『スピリチュアル』という
ムダを省くってことはそりゃ悪いことじゃないでしょう。 ただ、「何がムダで何がムダじゃないか」ってことを長期的に正確に捉えることは、人間にとって相当な難題であると言えます。 俯瞰的な眼で見れば見るほど「ムダって何?」っていう『そもそもの出発点』自体ドンドン曖昧模糊としたモノになっていくものです。 ムダだと思ってたモノが有用であると見直されたり、有用だと思ってたモノが時代遅れのガラクタに成り果てたりすることは歴史を紐解けば幾らでもあることです。 『人間万事塞翁が馬』って故事があります。 幸は不幸となり、不幸はまた幸となり変転止まるところを知らないって諺です。 人間はこの世界に生まれた時から変わりゆく者として存在させられています。 だから、その変転が最終どういう結末を迎えるかを事前に知る者はどこにもいません。 とはいえ効率主義というモノは非常に限定的な時間と空間の中では合理的なのでしょう。 ただ
欲望というモノは元々善でもなければ悪でもありません。 それはこの世に生存するために与えられた『必要な条件』であり、元から倫理的な事柄ではないのです。 欲望は常に『プラス方向』へ向かうものです。 「もっと美味いものをたくさん食べたい!」 「もっと金持ちになりたい!」 「もっと出世して権力が持ちたい!」 この「もっと! もっと!」という意味での『プラス方向』へです。 ただし、この「もっと! もっと!」機能が最初から通常装備されている欲望ってやつは、それ故に暴走しやすいのです。 たまたまではなく向いてる方向が常に暴走しやすい向きになっているということです。 そのことに対する認識が緩いほど欲望の暴走に対して無防備だということです。 ただ、いくら無防備でも普通は中々暴走に向かって突き抜ける人はいません。 『社会的な制約』というタガが外側からハメられているからです。 例えば宝くじに高額当選した人が急に
スピリチュアルな世界には「宗教的に言われるところの時間的な節目=見えないチカラの変化」みたいに捉えてる方がいらっしゃいます。 具体的にいうと「お彼岸やお盆にピッタリ合わせて必ず亡くなられたご先祖様が自宅に戻ってくるのだ」みたいな話を信じているってことです。 宗教的しきたりや土俗的な年中行事に対してそれぞれの立場に応じて信じたい方は信じればいいでしょう。 それを否定する気はありません。 社会的な潤滑油として、また生ている人間の心の安らぎとして機能していたりしますからね。 しかし、あくまでそれは生きてる人間のための宗教的な儀式や世俗的な慣習の範疇でです。 眼に見えないアチラ側の現実がそういった儀式や慣習に縛られていると考えるのは何だか違う気がします。 要は「お盆だのお彼岸だのという世間一般で広く行われている宗教的な『風俗習慣』なんてモノは結局生きてる人間の都合で成り立ってる」ってことです。 そ
人間は誰しも主観的な存在です。 純粋に客観的な人間など一人も存在しません。 なので、大なり小なり心には偏りが存在しています。 偏りのない人間など何処にもいないのです。 元々偏っているんだからその偏りを小まめに修正する必要が出てきます。 そうしないとそのうち心は振り切れてしまうからです。 心が振り切れれば振り切れるほど物事を単純化してで捉えるようになっていきます。 偏りが大きくなった分、心の中身が詰まってないスカスカになってる箇所が増えていくからだと思います。 そうなるとスカスカになった部分には何とか中身をみっちり詰めたくなるのでしょう。 まあ、半ば無意識にですが… で、大抵はそこに現実とズレたファンタジーな内容が詰まることが多いです。 元々偏りのクセが強いのに、そのままの状態で心にナニカ詰めるから、より振り切れた方向へズレていきます。 偶然ではなく必然としてね… なので、世の中には「あいつ
ここでいう所謂『悪魔の契約』というモノについて説明しておきます。 人外のモノに誘導され操られて何らかの現世利益(金儲けや立身出世、超自然的なチカラの取得など)と引き換えに人外のモノとギブアンドテイクの関係になることです。 念のため申し上げれば、本当に『悪魔』なるモノと契約書を交わしてたりしているわけではありません。 ていうかキリスト教などで偶像化されている所謂『サタン』と呼ばれるモノが実在しているとは個人的には思っていないです。 亡くなったヒト、物の怪、オニ、式神、蟲、生き霊などのエネルギー体、それらエネルギー体の合体した得体の知れないモノなどなどの『人外のモノ』が悪魔の契約の相手です。 『悪魔の契約』ってのは、そういったモノに呼びかけ、願いを叶えたならその代償を支払わなければならなくなるってことなのです。 『悪魔の契約』みたいなことをしたがる人ってのは古今東西大勢いらっしゃいます。 その
拝見しておりますと所謂スピリチュアルや自己啓発の目的は「世界は自分の為にある!」なんて思えてしまうほどの『万能感』や「自分に出来ないことなんてない!」と信じてしまえるほど『高揚感』を手に入れることのような気がします。 それがそういったことの本来の目的であるかどうかは分かりませんが、一般的にはそういうのが今ごろの『流行り』であるのは確かでしょう。 もちろん何を信じようとそれぞれのご自由ではあります。 ただ、そういった類いの『万能感』やら『高揚感』を求めれば求めるほどそれと反比例して心は浮き足立っていくのです。 その『万能感』や『高揚感』自体が既にフワフワしたモノだからです。 地に足が着いてないってことです。 地に足が着いてない状態が長く続けば当然心は不安定になるのです。 不安定になった心はむやみに揺れ動いて、より現実感を失います。 不安や恐怖や空想・妄想に支配されるのです。 『万能感』や『高
生きるということは波乗りみたいなものです。 巡りゆく運の波に上手く乗れたり、乗り損なったりしながら進んでいきます。 また、感情の起伏、身体の好調不調など『自分にまつわる色んな波』が死ぬまで付いて回ります。 それらの波を完全に制御することなど、ちっぽけな人間にはどだい無理な話です。 「人には添うてみよ! 波には乗ってみよ!」でございます(笑) 大波小波乗り越えて、乗り越えながらなんとか凌いでいくしか生きる道はありません。 「運命を拓く」とは出会いと選択を繰り返しながら、良い波が来るタイミングをスタンバイして待ち続けることです。 それには平衡感覚が必要です。 先ほども申し上げたように、人生は波乗りですから。 いざという時の危機察知能力というモノは、ありふれた日常生活の中で磨かれる『平衡感覚』に支えられています。 つまり、平衡感覚を磨くことが『勘』を鋭くすることに通じているというわけです。 この
世の中には『啓蒙したがる人』ってのが少なからずいらっしゃいます。 ここでいう『啓蒙したがる人』とは他人に対して「自分が『正しい道』に教え導かねばならない!」という暑苦しい使命感を持った人のことです。 個人的には余計なお世話って風に思えますが、ご本人たちは至って真剣です。 まあ、その真剣さは大抵疎まれる類いのモノなのですけどね… 人は「周りの人間より自分は優れている!」という根拠のない優越感を持ってしまうと「無知蒙昧な人間たちを自分が啓蒙しなくちゃいけない!」という傍迷惑な使命感に駆られたりするようです。 そして、それこそが「善を為すことだ!」と信じていたりします。 しかもそういう人は必然的に他人に対してはアグレッシブになっていくものです。 何故なら「分かってない奴らにオレ様が本当のことを教えてやるよ〜!」的な行為をしようとすればするほど、他人からは嫌がられ、疎まれることが多くなるからです。
「自分たちだけが本当のことを知っている! 世の中の99%は無知な愚か者である!」という選民臭の強い考え方を持った人々がこの世界には結構いらっしゃいます。 そして、そういう人は往々にして「本当のことを知る者は認められない!」という悲劇のヒロイン的な陶酔感が強いのです。 例えばその『99%の人が知らない世界の秘密』とやらを教えてくれる人が目の前にいたとします。 大半の人はまず最初は「これって本当のことだろうか?」と疑うことでしょう。 少なくともはじめから「よく教えてくれました! 目から鱗です!」などとはならないものです。 でも、逆に『教えてくれる側』の人は、その疑心暗鬼な人々を見て「世間の常識こそ間違っているんだよ! みんな目を覚ませ!」という気持ちがますます強くなり、より一層自説を主張するようになったりします。 それでも、大抵の周りの人間は冷ややかなままです。 で、教えてくれる側の一部は人々
この世の中には臭覚で感じるのとは別の波動的な『ニオイ』ってのがあります。 一番わかりやすいのが、イレズミをしている人のニオイです。 イレズミをしている人からは、何だか古くなった薬品か絵具か何かみたいな独特のニオイがするのです。 もちろん全員がまったく同じニオイってわけではありません。 ただ、ケミカルな饐えたようなニオイってのは似たり寄ったりな気がします。 まあ、これはあくまでも個人的な経験から来る独断と妄想の話ですけどね… ニオイって言ってもリアルに鼻で嗅いでいるわけではないので、雑誌の写真とかからでもその手のニオイはしてきます。 電車に乗っている香水過多のご婦人のように、そのニオイは結構強烈です。 別に文化論としての刺青の是非をここで論じるつもりはありません。 近年は「グローバルな文化としてのタトゥーを認めろぉ!」みたいなことを声高に唱える向きも、社会の一部にはありますしねぇ… 彫る彫ら
「肉体という物が、無くなればその人の『存在』すべてがキレイさっぱり無くなる!」という考え方があります。 いわゆる「自分の目に見える物」だけを信じる唯物論の考え方です。 唯物論って考え方を続ければ、遅かれ早かれ「やり逃げ上等! ごまかし万歳!」って感じの心の在り方に傾いていくでしょう。 だって、死んだら魂も含めて自分という存在は跡形もなく消えてなるんですよ?(あくまでその人たちのアタマの中ではですが) そりゃ「生きてる間にやりたい放題やればいい! 自分が消滅した後の世界のことなんて知ったことかよ!」って風にもなるでしょうよ。 「唯物論的な考え方を続けてるとそのうち刹那的な考え方に染まっていくよ」ってことです。 人生80年というなら80年分の長さでしか物事が見られなくなります。 唯物論的な考え方を簡単にいえば「自分が自分が見たり聞いたり触れたりしてちゃんと認識できた物以外はすべてマヤカシだ!
所謂『予言』ってヤツは『当人にだけ都合のいい一発逆転』を求める人の最後の拠り所なんじゃないかと感じています。 少なくともそういう願望にとって都合の良いモノが少なくないのは確かです。 それはこの世界そのものが一旦ガラガラポンされて、それまであった都合の悪いモノが全て粉々になってから新たな出発をするというような内容です。 ちゃぶ台返しと申しますか、兎に角古い世界が一度ぶっ壊されるってのがミソです。 一言でいえば所謂『予言』というのは破壊と再生を願う者の物語です。 噛み砕いていえば「腐りきった今の世の中なんて滅んじまえ! 滅んで更地になった後に理想の楽園を築けばいい!」みたいな想いの結晶なのです。 で、この考え方の根っこにはユダヤ・キリスト教的な終末論と楽園伝説があります。 楽園伝説というのは、旧約聖書の創世記に最初の人間 (アダムとイブ) が神によって楽園 (エデンの園) から追放されるという
人間は元々「動けばブレるように出来ている生き物」です。 生きているというのは、意図しようと意図しまいと心や身体を動くことです。 なので、死ぬまでずっと『心と身体のバランス』を取り続けなくちゃなりません。 バランスを取り続けることでしか生きる道はないからです。 でも、なぜか世の中には「ブレない」ということに憧れ、それを手に入れたいと渇望している人が少なくありません。 多分心や身体のバランスを取るなんていうめんどくさい作業を永久に終わらせることの出来るツールとして「ブレない」を手に入れたいと考えているのです。 じゃあ、なぜブレないにそんなに執着するのかというと『ブレている自分』を受け入れられないからだと思います。 逆にいえば『ブレない自分』こそが真の自分だと思いたいということです。 まあ、それは見果てぬ夢ってヤツなんですがね… 森羅万象すべてのモノには波動があります。 波動があるというのは常に
私の造語に『仮定盛り』ってのがあります。 「こうに違いない!」という思い込みを土台にして、その上に「ならば、こうなるはずだ!」という仮定の話を『ブレない真実』のように盛り付けていくっていうやり方を表す言葉です。 で、盛り付けた話は仮定のはずが直ぐにその場で「そうに違いない!」という『確信』に変質していきます。 っていうか盛られてる途中で、もうすでに『ブレない真実』のように扱われていますけどね… そして、またその『確信』の上に仮定の話が盛られていくのです。 ネバーエンディング盛り盛りストーリーです。 まぁ、思い込みと決めつけのコラボレーションですけどね… 思い込みと決めつけのコラボはやがてイリュージョンへと成長していきます。 そのイリュージョンは成長を続ければ、映画マトリックスに出でくるような本物と見紛うばかりの『仮想現実』にまで盛り上がります。(その人にとってはですが) で、この仮定盛りに
「人間の想念の塊のようなんですが明らかに普通の想念エネルギーとは毛色が違うモノがこの世には存在する」ということに或る時気付きました。 それは「世の中全部気にくわない💢」とか「人間なんて滅んでしまえ‼」とかいった破壊的或いは破滅的なエネルギーが素になっているようです。 普通のネガティブな想念エネルギーと比べると遥かにドロ~と濃厚で禍々しく黒いイメージのモノです。 邪悪な『まっくろくろすけ』というか暴走モードに突入した『カオナシ』というか… 最初に真っ黒の中に裂けた口と牙が感じられたので個人的にソレをずっと 『オニ』と呼んでいます。 あと、建物でいえば廃墟のような荒廃した感じが強くなります。 人が住んでる家ではなく、空き家になって久しいみたいなね… それともう一つオニの大きな特徴として「自分よりチカラの弱いものを次から次へと呑み込んでしまう」というのがあります。 相手が物の怪であろうと亡くな
世の中には『特別』であることを求める人がたくさん存在います。 特別なチカラ、特別な感覚、特別な使命、特別な人生などをです。 『特別』に憧れ、『特別』に囚われているといったほうがいいかも知れませんが… ここで言う『特別』とは例えば「自分は他人より世界の真実を知っている!」とか「自分は神より選ばれた人間である!」とかいう優越感に溢れた状態のことです。 そういう状態になりたいと渇望し、「既にそうなったに違いない!」と思い込みたい方々が大勢いらっしゃるわけです。 よく魔法とか出てくるファンタジー系の物語には、「最初無力だった主人公が実は秘めたる凄いチカラを持っていて、話が進んでいく過程でそのチカラに目覚める」みたいな筋書きがあります。 或いは「スゴい魔術師とかの血を引いていて、そのチカラを引き継いでいる」ことがストーリーの途中で分かったりね。 何故そういう筋立てが多いかというと、「特別なチカラが欲
ランナーズハイとは長い時間走るなどの激しい運動をしている時に分泌される脳内物質によって、苦痛が軽減されること。またその状態。 例によって例のごとく独断と偏見で申し上げれば、これは運動で生じる『苦痛』を脳内麻薬とも呼ばれるエンドルフィンによって『快感』に置き換える装置を内蔵しているということです。 人間はある限界を超えると無意識に苦しいことをむしろ楽しいことのように自分に感じさせるスイッチが入るのです。 同じように、心が苦しくなると無意識に一般に気と呼ばれる類いの生体エネルギーの流れを逆転させることでその苦しみを感じなくさせようとする装置が人間には内蔵されています。 苦しいことを寧ろ楽しいことのように自分の心に感じさせることによって、苦しいことから解放されようとするのです。 心のエンドルフィン効果とでも申しましょうか…つまりは元々自分を守るために自然に備わっているモノだということです。 しか
世の中には身体の事になると直ぐにご自分の信奉されている健康法とかのキモの部分に話を持っていきたがる方が結構いらっしゃいます。 「あの病気の原因もこの不調の原因も全てはコレだ!」みたいな感じにおっしゃるのです。 特徴は「ある特定の食物や運動の過多や不足さえ改善すれば健康は取り戻せる!」みたいな単純明快さです。 それを私は『これさえあれば健康法』って呼んでるんですがね… この『これさえあれば健康法』ってのはインスタントの健康版みたいモノです。ここでいう『インスタント』とは、いつでもどこでも何にでも、スッキリはっきり『誰にでも分かる答え』を、あっという間に出そうとする心の持ちようのことです。 『熟慮』とか『思慮深さ』とは対極にある心の在り方です。別の言い方をするなら、『わかりやすい手っ取り早さ』を何よりも優先するやり方だと言えるでしょう。 で、そうなると「あやふやさ」や「回りくどさ」をひどくきら
波動のレベルの高いモノはフワッと軽くてスカッと明るく、波動のレベルの低いモノはドヨヨ~ンと重くてジトッと暗いのです。 別の言葉で言えば波動のレベルの高いモノは穏やかで温かく、波動のレベルの低いモノは荒々しく冷たいのです。 エネルギー的に見た雰囲気というのは、それぞれの人・物・場所から『それ固有の波動エネルギー』が、そこはかとなく漏れ出している状態のことを指します。 それが人間であれば、漏れ出している雰囲気とその人が元々持っている人間性とが混じり合って感じられる気配が、その人の『佇まい』なんだろうと思うのです。 その『佇まい』は日頃の立ち居振る舞いに現れます。 言葉の端々、行動の端々に現れるのです。 日々の何気ない言葉や行動の集積がその人の波動のレベルを形作っていきます。 そうやって形作られた波動のレベルがまた次の『佇まい』の素を作り出すのです。 つまり、波動のレベルと人の持つ『佇まい』は深
何らかの現象があるならば、必ずそれ相応の原因が存在します。 逆に言えば結果の無い原因なんて何処にもないということです。 それがここでいうところの『因果応報』です。 なので、因果応報というものはこの世の全てに遍くあります。原因という種があって結果という花が咲くのです。 原因に見合わない結果があると考えるのは不自然です。 それは何か現象が起こるなら、その現象相応分の原因が必ず何処かにあるってことでもあります。 だから、因果応報というのは宗教やスピリチュアルの専売特許ではないのです。 少なくともこのブログにおいてそれは『原因と結果の関係性を単純に表した言葉』です。 原因に相当する結果が後に起こり、結果に相当する原因が先に存在するという単純明快な話です。 なぜそんなことを申し上げるかというと、因果応報ということをオカルト的な特殊な事柄か何かのように捉えている人を時々お見受けすることがあるからです。
世の中には霊能力と呼ばれる類いのチカラがあります。 個人的にはそういったチカラには大体2通りのパターンがあると思っています。 一つには人間が生まれながらにして持っているいわゆる『第六感』ってヤツです。 一般的にら勘と呼ばれる類のモノです。 個人的には『勘』というのは他の五感と並列的に存在するモノだと思っています。 生きていくために必要な日常的な感覚の延長線上にあるモノだとね。 今も言ったように、ここでいう五感というのは、誰もが毎日ごく普通に感じたいは知覚のすべてを指します。 それぞれに個体差はあってもみんなが生まれたながらにして持っている『感じるチカラ』全般のことです。 もう一つのパターンは眼に見えない存在から後天的に与えられた超自然なチカラのことです。 元々その人が持っていなかった能力なので、ある日突然使えるようになったりします。 またチカラの源泉たる人外のモノの力量次第で チカラの質や
世の中の人の多くは「今の自分」の心の自由度についてあまり認識していません。 それについて考えてる人自体それほど多くないように感じます。 多くの人は「自分の心なんだから基本的に丸ごと自分の顕在意識で以ってコントロール出来るようになってるはずだ!」と何とな〜くぼんやり信じてるんじゃないでしょうか? 現実に何処までコントロール出来てるかどうかは別に、『構造』としてね… 人の心の動きというのは想像以上にその人のその時の顕在意識以外のものに操られていることが多いものです。 ここでいう顕在意識というのは現在なら現在時点でその人がハッキリと自分自身で認識出来て、しかも自由に変更可能な心の部分のことを指します。 操られているとすれば当然そこのところは自由に変更は出来ません。 その自分でも自由にならない心の部分っていうのが少なくとも全体の半分くらいはあるのです。 正直半分というのは少なめの見積もりで実際はも
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